金沢のインテリアマエストロ山岸LABO
リンテルノ

山岸晋作の履歴書

いつもブログを読んでいただきありがとうございます。

山岸製作所の山岸晋作です。

 

私は家具の選び手として、地域の皆さまにより良い家具のすばらしさを伝えるために情報発信をしていますが、今回はこの場を借りて私自身の紹介をさせていただけましたらと思います。

 

題して「山岸晋作の履歴書」
私は両親をはじめ、仕事でかかわってきた上司や先輩方、生涯を通しての大切な友人より様々なことを学び、いち社会人として成長させていただきました。

 

日ごろからブログでお伝えしている価値観も、皆様に育んでいただいたといっても過言ではないでしょう。

 

そんな私のプロフィールを、皆さまにお伝えしたいと思います。

 

1.父親に背中を押されてアメリカへ飛び立つ(1991~1999)

 

高校を卒業し、予備校生活を経て東京の大学に入学。

 

中学時代の恩師の影響で、もともと英語は好きでした。高校時代は英語しか勉強しませんでした。英語だけしか勉強していなかったのになぜ理系の大学を選んだのか。よくわかりません(笑)よく理系の大学に入学できたなと思います。

 

入学後、サークル活動で浮かれている同級生を尻目に硬式野球部に入部。

試合の打ち上げや新歓コンパでは必ず校歌を歌います。しかも道路の真ん中で。

大学の授業は何一つ覚えていませんが、校歌だけは今でもしっかりと覚えています。

 

体育会野球部の飲み会は戦場です。救急車も何回か来ました。厳しい先輩が注ぐ酒から逃げることばかり考えていました。飲む前に牛乳飲むと膜ができて吐かないとか。つぶれるフリする練習とか。余計なことばかりに神経使っていました。しかし全く飲めなかったお酒も人並み以上に楽しんで飲めるようになりました。それは人生においても大きな収穫かも。野球部がなければ飲み会でも飲めずにいる人になっていたかもしれません。あー恐ろしい。

大学を卒業したあと、家業に関連する大企業にコネで就職して、社会経験を積む。適当にもまれて家業の地に戻るのが一般的な二世Uターンです。

 

しかし、私の父親の考えは少し違いました。

「これからは英語ぐらい話せなきゃいかんだろう」

「段取りも全部自分でやれ」

そう背中を押され、日本国内でなく世界へと見分を広げるためにアメリカへ飛び立つことになりました。それが「オハイオ州立大学経営学部」だったのです。

住む場所も決まっていませんでした。語学学校からの合格通知書とトランク一つで渡米しました。今思えば行き当たりばったりの向こう見ずな留学のスタートです。オハイオ州立大学への入学はまだ許可されていません。まずは語学学校です。そして住むところ、寮を決めるのがまずは大きなタスクでした。ホテルからバスを乗り継ぎ、巨大なキャンパスにあるいくつもの建物から事務局を探し出しました。できない英語でたらい回しにされました。しかしながら野球で鍛えた体力と根性を駆使し、その日に寮が決めました。物怖じしない性格が功を奏しました。よくやったと思います。

そしてアメリカでの生活は「英語」との闘いでした。

寮は決まりましたが、部屋は4人部屋。典型的なアメリカンキッド3人と一緒に住むことになりました。いやー、英語は馬鹿にされるし、文化は違うし、心が休まりませんでした。語学学校で一緒だった台湾、韓国、中国、インドネシア人とは文化も近いし英語のレベルも似ている。いつも彼らとつるんでいましたね。食事はいつもチャイニーズ。

授業はもちろん日常生活も英語しかないので、言葉が通じなければ何もできません。

設定したはずの暗証番号でATMからお金を引き出そうとしても出てこない。窓口に言っても何を言っているのかわからなくて、しばらくお金なしの生活を強いられました。ファストフードで「MILK」がうまく発音できない。結局いつもコーラを注文してしまうなど、英語はどこでも私の前に立ちはだかりました。

はじめは苦戦していた英語ですがそのうち慣れてきました。始めは半年間語学学校で英語を学びました。その後、無事TOEFLに合格しオハイオ州立大学へ入学。「アメリカ人に負けたくない」という一心で、コーヒーショップに入りびたり、毎日3時間予習・復習で英語漬けの日々を送ることにより、次第に英語を理解できるようになりました。生活が楽しくなってきました。

そんなアメリカでの寮生活を送る中で、ルームメイトとしてアダムという生涯を通じての友達と出会いました。アダムとは互いの文化を理解しあったり、アダムの実家に招かれて感謝祭やクリスマスなどアメリカ文化を経験させてもらったりなど、かけがえのない時間を共に過ごしました。3年間ずっと一緒にルームメイトとして生活しました。車が故障したときには英語で助けてもらったり、週末にはパーティーに誘い出してくれたりしました。またアダムが苦手な数学を教えてあげたり、日本食レストランで日本食をごちそうしたりと互いに助け合って生活しました。充実していました。

寮での生活に欠かせないのがデリバリー。いわゆる出前です。ピザやチキンウイング、サンドイッチ、チャイニーズ、色んなものをデリバリーしてくれます。が、しかし、難題がありました。「DELIVERY」この発音が本当に難しい。デリバリーをするには電話口でまず「DELIVERY PLEASE」と始めます。RとLとVが苦手な日本人にはこれがつらい。デビバビーみたいになっちゃいます。アダムにおちょくられながら3年経った頃には電話で問題なくなんでも注文できていました。懐かしい思い出です。

アダムとルームメイトとして知り合った事がアメリカ生活で一番の宝物。

 

2.就職先は経営コンサルタントビジネス(1999~2004)

 

アメリカから帰国した後は山岸製作所へ戻る予定でしたが、ちょうどその時期に父が山岸製作所を離れることになり少々事情が変わりました。

 

山岸製作所の為にと学んだ経営学でしたが、父がいない会社へ戻ることは当初は考えられませんでした。父の跡を継ぐための武者修行だったわけですから、金沢へは戻らないことを決意しました。
しかしせっかく学んだ経営学を活かせる仕事を探しました。いつかはどのような形であれ経営者になりたいと思っていました。そこで、大学卒業後は経営コンサルティング会社へと就職しました。

 

最初の勤務地はワシントンDCでした。アメリカ合衆国政府がお客様でした。日本でいうところの文部科学省。全国の助成金の申請や許可などを管理するシステムの保守サービスを行うプロジェクトでした。アダムと離れて初めての一人暮らし。しかもまったく友達がいないワシントンでの社会人デビュー。心細かったのとアフターファイブがとても退屈だったのを思い出します。毎日筋トレとランニング。そして当時流行っていた「FRIENDS」というテレビドラマだけが「フレンド」でした。
2年ほど働いた後は東京オフィスへ配属になりました。当時の私の仕事は、財務会計系のパッケージソフトウエアを導入すること。

クライアントは大手企業の経理部の方がほとんどでした。その道何十年の経理のプロ中のプロ。片や経験のない新卒がプロを相手に仕事をしていくわけです。なんとか独学で簿記の2級を取得し、お客様と対等にお話しができるようにとくらいついていきました。でも無理ですよねー。手形を見たこともない新人が「半金半手の処理は・・・」なんてやっているから空虚さを感じていました。

ただひたすら働き、貪欲に勉強もしていた時代でもあったと思います。

 

プライベートも楽しかった。

終電で新宿に飲みに行き、タクシーで帰り、また出社。

給料はほとんど飲み代とタクシー代でした。

 

大型バイクの免許を取得。週末はバイクで大好きな草野球に行って打ち上げで飲む。

 

気楽なサラリーマン時代でした。
そんな私に更なる転機が訪れたのです。

 

3.母の上京と山岸製作所への思い(2004~2010)

 

経営コンサルティングの仕事にも慣れ、このまま東京に根を下ろすのも悪くないと考えていたころ、ある日私の母と叔母が金沢から上京してきました。

 

山岸製作所の将来を危惧していた母は、母の父が創業した山岸製作所に対する熱い思い、家具屋としての生き方、お客様への信頼関係などを私に伝えてきたのです。

 

思えば経営について学んだのも、山岸製作所を継続していきたいという気持ちからでした。
自分自身も毎晩遅くまで会社のために働いていた社長としての祖父の背中、父の背中を見て育っているため、山岸製作所の一員になりインテリアに身を染めたいという憧れもまだ残っていました。

 

一度は金沢を離れてアメリカで、そして東京で働いていた私でしたが、母の思いを受け、考え抜きました。自分の居場所はどこだろう。運命を考えた一ヵ月間でした。そして金沢に、山岸製作所に戻る決意をしたのです。一切の想いを東京に残さず東京に捨てて金沢に戻りました。覚悟を決めて後ろ髪をひかれたままだと金沢に失礼だと思いました。
山岸製作所に戻って最初にしたことはスチール家具の営業マンでした。
重たいカタログを持ち、金沢南町のビジネス街の中にある企業を一軒一軒すべて漏れなく飛び込み訪問するのが私の仕事でした。

 

飛び込み先ではただ商品を説明するだけではなく「山岸製作所を知ってもらう」ことが重要です。大手企業に勤めていた私は以前では名刺を渡せば理解してもらえました。しかし金沢でも小さな山岸製作所ではそうはいきません。

 

また、会社も大事ですが「どう自分を知ってもらうか」という点がもっと重要です。知ってもらうには覚えてもらわないといけません。印象を残すために子供用の学習ノートをメモ帳がわりにしてお客さんの前に出してみたりしました。また、面会してくれない担当者をお昼時間にコンビニで待ち伏せしたこともありました。本当に色々な場面で営業の訓練をさせてもらいました。

2年間毎日15件ほどの飛び込み営業を行い、たくさんの扉をひとつひとつ叩いてその対応に一喜一憂した日々でした。その中でも注文をくださるお客様がいました。飛込み訪問の営業マンに注文を出すことは経営者にとってみれば大きな「賭け」です。社長になったいまだからこそわかります。従来の業者との付き合いを破棄して飛込み営業マンに注文を出してくださった全てのお客様に感謝ですね。注文をいただく有難さを教えてもらいました。厳しく育てられ、今日の私の基礎を作ってもらったと思います。

 

長いアメリカ生活での自信がつきました。アメリカ生活で鍛えられたことが自分を大きくしてくれました。毎日のつらい飛込み営業を耐える力をくれたのはアメリカ生活だった気がします。人生の土台をつくってくれました。

 

4.豊かな暮らし方を提供しつづける会社であるために(2016~)

 

山岸製作所で2年間の飛び込み営業を経験したのち、2010年に山岸製作所の6代目社長として就任しました。そして、昭和11年に創業してから80年目を迎えた2016年の3月、山岸製作所は北陸新幹線開業に合わせてショップをリニューアルいたしました。

 

山岸製作所は歴史を紡いでいる会社です。

 

小さな木工所から始まりました。リアカーで金沢市役所に椅子や机を納品していました。

当時はどこもやっていない仕事でした。工場は「ヤマギシ学校」と呼ばれ、たくさんの職人さんがヤマギシで学び、卒業し、円満に独立していきました。

 

そのうち店舗のデザイン・施工を始めました。片町のビルがヤマギシのデザインで埋め尽くされた時代がありました。発想力・オリジナリティで勝負していました。

 

オフィス家具は全国に先駆けて岡村製作所と販売店契約を結びました。もっとも古い特約店のひとつです。「良い品は結局お得です」という岡村製作所の理念に共感しています。

 

とても早い時期にイタリアの家具を販売し始めました。カッシーナ、アルフレックスなど。小さいショールームながら一度に有名ブランドを見られるところは全国他にもありません。

 

このように山岸製作所のDNAは「独自性」です。自分たちしかできないことにチャレンジしていくことが我々にあるDNAです。

 

より良い家具を長く使ってもらうためにも、先輩たちが紡いできた仕事の数々を大切にしつつ、新しい取り組みもやっていきたい、そんな「忘れないで持ち続けいるところと、変えていくところ」を大切に、これからもお客様に良い家具を提供していきたい思いがあります。

もちろん、良い家具には実際に見て触れて座っていただき、快適さを体感していただかなければなりません。しかし家具の単品販売だけでなく、ショールームリンテルノで様々なイベントを開催しています。インテリアの情報発信を積極的に行い、インテリア業界で今何が起きているかを発信することにより、地域貢献につながるとも考えています。イベントで人と人が触れ合うことができます。その温もりこそが本当の豊かさです。

 

快適な空間や豊かな暮らし方を提供しつづける会社でありたい、そう私は考えております。

 

皆さま是非気軽にショールームへ足を運んでいただき、そして少しでも長くソファーに座ってみてください。それが山岸製作所の社長としての私の思いです。

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